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評論家 酒井憲一先生30回公演大成功を祝します第30回公演「WとMとOの∞の悲劇」花山ら楽主宰「WとNとOの∞の悲劇」を劇団40カラットのインターネットで鑑賞させていただき、大改革された画面で動画と舞台写真とメビウスの環にひたることができました。主演女優の体調上からの欠場アクシデントを演出家の実力と根性で、これまで以上の若人の殷賑舞台を現出させ、40カラット・レボリューションを成功させられました。アクシデントは転機の創造主。満席でキャンセル待ちの成功は、若人役者たちそれぞれのファンも駆けつけるという友情をも示唆していましょう。 芝居はどう変化しましても、無限大マークの交点に花山ら楽が立ち聳える限り、表は裏に、裏は表に無限につながって、40カラットのアイデンティティは不変です。 古希(古代ギリシャ)とシェイクスピアに強い花山ステージの動画と舞台写真を凝視しながら、古希悲劇の祖アイスキュロスの名とその英語読み名のイスキラスとが、「イスキラス∞アイスキュロス」「アイスキュロス∞イスキラス」と画面で堂廻目呟メビウスリンクしている不思議な体験をしました。 次の31回公演は来春。鈴ノ木主演女優も復帰し、今回の若手演技者たちが目を疑うほどに妖しくあでやかに咲き競いましょう。ますますのご発展を祈り上げつつ、「30回」公演のお祝いに及びました。 40CARATファン 酒井憲一 |
評論家 酒井憲一先生皆既日食の日に観た広義シュールの舞台第27回公演「蝶々、蝶々、わたしにとまれ」2011/12/10 pit北/区域にて観劇 アサギマダラの脱皮と大移動にX期の暗示満月を皆既月食が食べた日の白昼、都会の一隅、その名も洞窟pitを冠した垂直洞窟劇場地底の正方形もどきの4.4m×5m舞台で、蝶々が脱いだ。壁面には巨大な蝶が描かれている。40カラットのこれまでの劇風になじむ黒蝶ではなく、明るい半透明の水色の斑点が、アサギマダラであることを告げる。ひとびとは舞台の2面に面して正方形に刳り貫かれた横穴観客席から、蝶の脱ぐのを凝視した。海峡の渡り蝶のようだった。まず、にわかに張られた2本のロープにシーツが張られた。 てふてふが1匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った 安西冬衛の一行詩が見据えた間宮海峡(タタール海峡)かと思った。が、次いで起こった激しい水しぶき幻想の中、いっせいにクロールのような羽ばたきを見せたのは、大群の「旅する蝶」で知られるアサギマダラの南の渡り路ではないかと思った。いまアサギたちは、日本から大移動し、温かい南の島の洞窟で群舞している時期であろう。 舞台では1100キロ、1200キロのせりふが聞かれたが、あの華奢なからだで、どうしてそのような長距離をわざわざ渡るのだろうか、どうして渡ることができるのだろうか。春から本州まで北上してきて、北海道まで勇み足し、もどれなくなる蝶もいそうだといわれる。韃靼海峡の1匹の蝶もその1羽なのだろうか。 相次いで、水しぶきが上がる。大気渦の象徴かもしれない。1齢、2齢、3齢、4齢、5齢と脱皮を繰り返してなった蛹からの美しき飛翔といった、完全変態の昆虫。その来し方を本能的なバネにした強靭な渡り蝶たちが、飛沫ともつれながら群舞していく。人魚でなくて、人蝶と化した素肌と素顔の女優連の敢闘。これまでの公演で厚化粧演技に慣れてきたファンは、あまりに間近に見る素肌に生唾を飲み込み、圧倒されて幻覚ではないかと錯覚する。これまでの手法を脱いだ大胆演出である。 脱皮。連鎖劇ならぬ二部構成で、いつものチラシ作者遠藤麻由の洞窟ギャラリーにおける原作展示の鑑賞時間としての休憩をはさんだ。無休憩の伝統を脱いだその連結器は蝶だったが、第一部のクマゼミの脱皮といい、第二部の蝶々の脱皮といい、脱皮が連結器であると言い換えてもよい。その連結器を仕掛けたところに、劇団がらみの脱皮ムードがうかがえた。 劇団のホームページは、当日のアンケートであろうか、3回観たというファンの書き込みを速報した。 「一回目は胡蝶さんの躍りにドキドキして(笑)、二回目は、ゆっくりと観ました。三回目はお気に入りの役者さんの顔がよく見える席で観ることができました。終盤の麻弥と揚げはのシーンには目頭が熱くなったりして(笑)お気に入りの役者さんも増えて、とても楽しい1日でした」 こうした角度の観賞を反芻したうえで、なおかつ私は、渡り蝶海路のダイナミックシーンに焦点を絞って、象徴的に論じたことを是としたい。 厚化粧で難解なステージだった40カラットは、この皆既月食を挟んだ3日間の公演で、満月を思わせる40カラットの全円をみずから果敢に侵食してみせ、そして全円に回帰する過程を暗示した。幻想、奇譚の伝統色は受け継がれているものの、せりふにも具体的な蝶の名や説明がこぼれ、その都度これまでのアサギ大移動の報道を思い起こさせた。 一口にいえば「シュール」である「ら楽シアター」は、超現実主義というフランス語のシュルレアリスム的な一面の性格追求から、略されて和製フランス語になったシュールの語によって、超現実が「過剰なまでの現実」と反転解釈される一面を見せた今回の舞台手法は、誤解を恐れずにいうならば、広義のシュールを問うた作品といえよう。 ともあれ、従来のら楽作品からみれば、かなり現実的な作劇だった。現実という語を使う以上は、今回の公演のように分かる言葉の使用も「ジャンル:40CARAT」からの逸脱ではなく、前進ではないかと認識させる誇りが、舞台にみなぎっていた感がする。 さて、「ジャンル40CARAT」という新鮮なフレーミングは、この日配られたプログラムで初めて知った用語である。今回のプログラムはこれまでの編集を脱皮して、細字のデータにまで目が吸いつけられる魅力のリーフレットだった。役者のひとこと集も「昆虫図鑑」の標題で整列させている。「ジャンル:40CARAT」という魅力的な提起もその一例である。しかし、ジャンル40CARATとは何かについての解説をつけないところ、手の内は明かさずに、にんまりとファンに韜晦さを残すら楽流は変わっていない。 それにしても、舞台だけではない。劇団のホームページも格段に充実した。観劇予約もそこからたやすくできるようになったので、さっそくクリックして申し込んだ。ホームページの劇団消息を伝える各コーナーも、これまでよりも繊細に編集された。 帰路、目と鼻の先の都バス王子停留所に着くと、何と側壁目いっぱいに12羽のバタフライが羽ばたいていた。「東京を走って、集めました」のキャッチフレーズで、それぞれの蝶に都内の関係サイトの写真がはめ込まれていた。バスがきて飛び乗ったため、アサギがいたかどうか確認できずじまいだった。 でも心残りは、第25回公演会場で配られた 速報!! 花山ら楽が女優復帰します!! というフレーズの公式女優復帰宣言を発したら楽の舞台姿が、この日も見られなかったことである。ピーターパンのような影絵の身なりと四肢で、ほの暗い劇場内に風を起こしつつ飛び歩き、演出と観客サービスにつとめるら楽主宰に見とれながら、これ以上観客を待たせないように、じれったさを吹っ切らせるように、女優復帰宣言を幻にする魅力的な公的新宣言を願いたいのである。 劇団40カラットは変わった、というのが言いすぎであるならば、劇的前進を吐露した2011年だったといいたい。70億人地球誕生の年である。原始原人は、穴居からここまできたのである。王子の洞窟劇場における第27回公演は、どぎもを抜く構造の地底舞台から、第X期へ脱いで羽ばたいた40カラットの最初の日と見立てることは、あながち不条理とはいえない気がする。 2011.12.13 40CARATファン 酒井憲一 |
評論家 酒井憲一先生現代魔術社会における熱演と女優ら楽の震災余波第26回公演「嵐が丘13番地 殺られる前にヤってやる」2011/6/5 ザムザ阿佐谷にて観劇
「花山ら楽が女優復帰します!!」
前回公演で配られた速報のそれは、一行で熱烈ファンを高揚させた。今回公演の「嵐が丘」に立つ女主人公ら楽の、実に幾年ぶりかの出演、それも「らら」が「ら楽」に改名された「楽」の字の謎解きが示唆される演技を期待して着席したファンは、殺られる前にヤられてしまった。魔術にかかったのだ。まんじりともせず、その出番を待ちつつ凝視しつづけた舞台に、生身の「女優ら楽」は現れなかった。 「女優ら楽がいない! 事件だ!」である。「事件だ! あろうことか」の書き出しで始まる今回公演チラシの口上通り、第26回公演は「事件」を演じた。しかし、その事件は、ばぁちゃんが少女だったという奇譚どころではなく、女優復帰宣言をしたら楽の身の上に何が起こったのかのミステリーである。殺られたのか、はたまた失踪したのか。 事件か、事故か、観客は内心叫んだに違いない。それでいて、役者たちの献身的な生き生き一体感は、一体どこから生まれたのか。「嵐が丘」といえば、エミリー・ブロンテの名作を思わないひとはなかろう。あの嵐が丘も館だった。しかし「嵐が丘13番地」のら楽なき館は、女優ら楽の不出現が最大の奇譚になったのである。「13番地」は、その「意味」のある番地でもあったのか。 アクシデントがなければ、女優ら楽は好演鹿又隆志と組んで、稀代のめんこいばぁちゃん役を演じたのであろうか。そうであってほしかった。このアクシデントは何か。未曾有の東日本大震災の計画停電で熱湯を足に浴び、舞台稽古に上がれなかったという。その無念をら楽は台本書きにぶちまけ、一方、鈴ノ木まろのコメントではないが、「東北魂我にあり」の「ともにがんばっべし」は、被災地に向けられただけでなく、ら楽の無念を全劇団員で晴らそうと奮起した合言葉の舞台に思われた。 花柄のひらひらスカートの少女を追い越しざまに気づくと、おや、おばぁちゃまではないかと驚くのは、日常茶飯事になった。それを現代魔術社会といおうか。おばばが少女、少女がおばばといった奇譚は、先鋭な40カラットの舞台で物騒に展開された意義は大きい。 おばば・少女同一性現象をひらひらスカートおばばでなく、エリザベス朝時代と思いたいような華麗の跡の廃洋館に侵入し、銃と拳銃を振り回す老人ホーム脱走おばばの奇想天外なブロットは、さすが円熟台本作家ら楽の社会風刺の先駆性だった。 それにしても武装おばばふたりプラスひとりの3人おばばの演技はめざましく、なかでも鹿又のさゆりに至っては、その女装を信じがたいものとする迫真芸が、おばば・少女の同一性とともに男・女の同一性を妖しく暗示させた。 巷が魔術社会に移行した現代においては、このようなら楽奇譚の果てしない呪術性・魔術性を求めて、ファンは劇場を満席にしつづけている。しかし、今回は拉致され廃椅子に縛られ、むかしの恋人の幻を追い求めているじじが悶絶し、廃屋が崩れかかりそうなまでに震動する舞台に、「女優ら楽」の妖艶な演技が見られなかったことに、焦燥と寂寥を覚えたのは事実である。 次回第27回公演こそは、妖艶な? あるいは無垢な? 「女優ら楽復帰」のしたたかな演技による華麗な40カラットのX期エポックに期待したい。作・演出家兼とはいえ、出演の時間を少しでも多くとって、ファンの渇望にこたえてほしい。 2011.6.8 40CARATファン 酒井憲一 |
評論家 酒井憲一先生花山の心機一転、改名と女優ら楽宣言イノベーション舞台 第25回公演『笹の音の小夜曲~セレナータ~』2010/9/17~19 シアター風姿花伝にて
40CARATに何かが起きている。第24回公演で底入れし、25回公演は急浮上して、きらめくイノベーション舞台になった。
「笹の音の小夜曲~セレナータ~」の開幕は、ステージからではなく、客席の壁に不意に浮かんだ微笑美少女の列が、笹音のかげぼうし役を暗示するところからだった。しかし、今回のチラシやホームページであらすじを読み、「奇譚からミステリーへ」を予感した観客にとっては、美少女群と強烈な単照明とスモーク効果によって、これまでの魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)舞台が一転、ソフトなかげぼうし舞台になり、そうしたことからもイノベーションを感じた。 40CARAT演劇は、晦渋(かいじゅう)、韜晦(とうかい)で知られる。ストーリーの多くは、奇譚的である。チラシにもホームページにも、公演のあらすじとはあっても、もとよりプレリュードしか書かれず、解説も皆無である。観客は終始、舞台の気配に酔うが、終演のあとには韜晦への余韻とともに混乱が募る。おできをおさえるときの甘痛い感覚に似た浮遊である。 それにしても、新手法でイノベーションを感じさせた舞台だったが、これまでにもなく観賞を高揚させた前駆は、チラシやホームページのあらすじにあった。 <20年前の七夕の夜、とある村からとある一家が姿を消した。主を失った家には小さな笹と「しあわせに」と書かれた短冊が風に揺れていた。しばらく後、夫婦の遺体が書き置きとともに見つかったが、 小さな赤子の男の子は行方知れず、村人たちは神隠しだとささやいた。迷宮入りした事件を追う謎めいたふたりの刑事が、 ふたりの娘と暮らす女を訪れつづける。ほんとうの、事件の真実は、どこへ?」 ひきもきらずに配された「姿を消した」「遺体」「行方知れず」「神隠し」「迷宮入り」「謎」「刑事」「事件」という緊迫した語彙群は、まさにミステリ-のエレメントである。これまでの40CARATで、ここまで赤裸々にミステリー語を連結したチラシはなかった。 花山演劇のすべてをしゃぶりつくしたいとねがう熱烈なファンは、その解を考えあぐねてとまどっている。改名それ自体がミステリーといえなくもない。そのミステリーを沸騰させたのが、会場でプログラムとともに配られたもう一枚のチラシだった。 速報!! 花山ら楽が女優復帰します!! 6年ぶりの役者復帰、2011年の七夕前の26回公演における「作・演出・出演」の三位一体復活宣言である。6年前の花山の演技は、ディテールまで覚えている。その再来はしかし、当時の花山の思いと形を心機一転、新しい世界への止揚を問う円熟舞台になりそうである。 もう以前の「らら」ではない。「ら楽」という女優である。「女優ら楽」のプレステージは、奇譚の深化か、奇譚ミステリーの開花か、それとも第三の舞台なのか、第26回公演に早くも心を奪われている。一方この時期、40CARAT事務局は移転した。諸般を象徴するキーワード「楽」のミステリー性が、第X期40CARATをエポックしていくに違いない。 2010.9.27 40CARATファン 酒井憲一 |
評論家 酒井憲一先生堕ちきれぬ人間肯定のらら奇譚第23回公演『堕ちて逝く羊の寓話』2009/11/18~23 阿佐ヶ谷アルシェにて
羊の発音はヨウである。期せずして、ららワールドにいくたびも登場するヨウコのヨウである。メェメェ羊のテーマソングは、よう子姉さん、曜子姉さん、ヨウコさんの鏡像と同じ系列におく暗号のように、羊の音は「ヨウ」である。いつもに似て冥界のチミモウリョウが蠢動しながら、今回は「堕ちて逝く羊」の題名にかかわらず、堕ちていきそうで堕ちていかない、逝きそうで逝かない。境界領域としての鏡面の彼我、冥土と現世の錯綜はあっても、所詮、人間の愚かさは変わらないと真理しているかのようである。
鏡像は左右逆転像といわれるが、実は鏡の真理は奥行きの逆転である。左右は平面であるが、奥行きは過去であり、鏡面で分かつ過去と現在、若き理髪師と老いた理髪師の同一人格のユリコを慕う真情に変わりはない。うがってみれば、ユリコのユはヤ行で、ヨウコのヨと因果を結ぶのは、作者ららの深層心理であろう。 ギリシャ神話とアリス物語とらら奇譚の面妖な三差路の直下は、果てしない「堕」し穴でなく、「落」し穴レベルの地下中空にとどめられ、繰り返す人間の愚かさをいつくしむ花山ららの深層心理の蒸着した耀(かがよ)いが感じられた。この舞台にあっては、オルフェウスを暗示するマネキンの首や馬の化身の美女の怪奇も戦慄も、舞台に飾られた絵なしの額縁に、推理小説の凄愴さを超えて感じるような人間肯定の心象風景を見て取ることができるのである。 ひっきょう、芭蕉にたとえて着想すれば、その軽みに到達した里程と相似とはいわないまでも、花山ららならではの通底した熟成期を歩んでいるかのようである。軽みにノリをみせていえば、「らら」を口ずさんでしまった第23回公演であった。 カラット かわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間に 神に願いを(ララ)かけましょか 2009.11.27 40CARATファン 酒井憲一 |
評論家 酒井憲一先生花山劇感想第22回公演『いばら館のろくでなしのヨウコさん』2009/5/22~25 阿佐谷ザムザにていばら館のろくでなしのヨウコさん憑依(ひょうい)垂直に堕ちるとはこのことでしょうか。でも、土を崩して落ちるのではありません。 重力はないのですが、蠢動(しゅんどう)のまま降りていき、やがてぷっつり。 芥川の蜘蛛の糸ならぬ、マクベスならぬ花山ららの薔薇の沈潜です。 これまでの多くのらら劇は、 多空間がさみだれて波紋し合い、 環を重ねては拡散し、また戻ってきました。 それが今度は、ららの胎内の大いなる深さにのみ通じる鉛直空間でした。 お互いがやってきて、お互いの運命にうごめいて、 うごめき果てた絶叫の眠り姫ヨーコさんは、 薔薇の花芯に堕ちました。 15周年、第22回公演は垂直舞台一場であっただけに、 演技の熟練は極限を行き、怖いほどの感動を与えました。 よう子姉さん、曜子姉さん、ヨウコさんとYOKO三代目の大熱演。 声も嗄れての楽のヨウコさんに、のけぞるほどに憑依され、 その夜は眠られませんでした。 2009.6.2 一ファン 酒井憲一 |
酒井憲一先生より『花の山うた集』祝劇団40CARAT15周年 1994~2009 花の山うた集─40CARAT15周年頌酒井憲一 2009.3.30
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いち
94.7 あなたが行く天国恋は夢
お相手は |
はち
00.11 蝶、きれい。ストリップ劇場の踊り子たち
キレイなはずだった |
じゅうご
05.12 ギリギリ王の憂鬱
キリギリスと読めて仕方がない |
にい
95.3 ラストヴァージン
公園のダンボール生活の女 |
く
01.9 悲しくない?ロミオとジュリエット
細々としたバーを舞台に |
じゅうろく
06.8 花山的奇譚
見たものは |
さん
96.8 黒の薔薇
門司港の外人バー |
じゅう
02.7 斜岩病院ラプソディー
ナナメ病院の裏庭の池 |
じゅうしち
06.12 マッチ売りの少年だった
男の結末の最後の幸せ
長い外題を伝わって |
し
97.3 道
知恵遅れで盲目のおすぎ |
じゅういち
03.5 Moon Drop Love Stories
銭湯とまちおこしと若衆 |
じゅうはち
07.6 ビュルビュル
過去を消した |
ご
98.2 君が前髪に桜の花散る
桜が咲くと |
じゅうに
04.3 そして、沈黙
ナイフを頭上に吊るし |
じゅうく
07.9 ラストヴァージン改訂版
初演から12年 |
ろく
99.2 ふたりあかね
母を殺された少女あかね |
じゅうさん
04.10 ヤナギノウタガ聞コエル
都市計画観光課がある |
にじゅう
08.2 上海キップ
上海帰りのリルではないが |
しち
00.4 Do you love me?
ふうせんかずらの種 |
じゅうし
05.2 月光
暗殺に成功した |
にじゅういち
08.8 蝉時雨アメノウズメ伝
蝉時雨の中 |
にじゅうに
09.5 いばら館のろくでなしのヨウコさん
「乞うご期待!!!!」が「恋うご期待!!!!」とあるHP予告編。それが40CARAT流のウイット。ミステリーなのです。いばら館の扉の奥で繰り広げられる、妖しい花山ワールド。人間と霊と愛と都市計画と多重劇と晦渋の花山ワールド。 |
俳優 津田寛治さん
第4回公演 『道』
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初めてララさんに会った時の印象は「パワフルなオバチャン」といった感じだったのだが、今にして思えば、あの時から今に至るまで、僕の中の花山ララさんは少女なのだ。 誰もいない公園の片隅で、一人うずくまって遊んでいる女の子に「いーれーて」と声をかけてしまったような感じだ。 ところが、その女の子はとんでもない暴れん坊将軍で、なにかにつけて暴力を振るうのだった。 時には今まで創り上げたものを全部壊してしまったりもする。 そう…女の子は生まれながらの破壊大王だったのだ。 でも、余りにも気持ちよくボカンボカン壊していくので、そのあっぱれな破壊っぷりに気がつくと僕らは拍手をしていたりする。 そんな40カラットの舞台…最近観てないなあ…。 また元気もらいに劇場行こうかな…「破壊大王の少女」が今も健在なのを願って。 |
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東京大学教授 西村幸夫先生40カラットの見どころ劇団40カラットの身近なサポーターとして、またその舞台の永年の観客として、40カラットの芝居のユニークさとおもしろさを考えてみる。 まず第一に、どの芝居にも共通していえることとして、スポットライトを浴びる特定のヒーロー・ヒロインとその他の配役という構造になっていないことがある。 次に、芝居を見終わったあとの印象として、生きることに元気づけられるような作品が多いこと。役者もいきいきと楽しげに演じており、芝居のメッセージそのものも、いかに悲劇的なストーリーであっても、明日の元気につながるものなのだ。おそらく、劇団の基本的な主張として、生きる元気をまわりと分かちあうことがあるのだろう。 第三に、役者と演出家の共同作業として芝居が作られていること。これは第二の点ともつながるが、それぞれの役者の工夫が織り込まれて、芝居としても幾重もの解釈が出来るものへと深まっていると思う。また、演出家帝国主義ではないそのような作劇術が、劇団としてのまとまりのよさを生んでいると思う。 |
評論家 酒井憲一先生花山劇感想第17回公演『マッチ売りの少年だった男の結末の最後の幸せ』感想いつもの奇譚幻想から一転、大正・昭和ロマンを平成にまで昇華した舞台と感じました。 マッチ棒の人情が会場にすすり泣きを波立たせ、観客おたがいが自分の流す涙は池袋の雪になるぞと奇想し合いました。 賢治の妹トシとの「永訣の朝」の詩が、あんかひとつの舞台と、しびれるほどしわがれたソロと楽奏と交差して、中空に聖なるものを呼び続けました。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」 死にゆく日、最愛の兄に、雪を頼んだ妹。 「マッチ売りの少年だった男の結末の最後の幸せ」は、クリスマスキャロルのための特化作品なのでしょうか。 それとも芸術を今後に向けて止揚した新世界なのでしょうか。晦渋奇譚劇へ回帰するのでしょうか。それもよし、ただ、今は雪の(雪野)涙に暮れております。 平成18年12月23日 |
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